(53)臨時急行「津軽51号」上野行 8408列車 スハフ42車内音(秋田~大曲) 音声のみ
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- Опубликовано: 3 окт 2024
- 車掌が列車無線でED75 731(秋)の機関士に発車合図を出すと、ひたすら大曲まで一切無停車で走り抜けます。急行「津軽」の補完輸送だけれど、「急行だぞっ!」と言いたげに、高速走行をします。編成はED75 731(秋)(弘前~山形)+ スハフ42 2077(秋アキ)①号車+スハ43 2071(秋アキ)②+オハ46 2005(秋アキ)③+オハ46 2020(秋アキ)④+オハ46 2019(秋アキ)⑤+オハ47 2270(秋アキ)⑥+オハ47 2053(秋アキ)⑦+ スハフ42 2232(秋アキ)⑧です。それにしても、車内放送で「終点上野到着は明日の朝9時21分です。」というところ、時代を感じさせます。う~ん、あと11時間‥‥。なお、①~⑤号車は普通車座席指定、⑥⑦⑧号車自由席ですが、車種等の差はありません。当時の臨時急行はオハ35もよく使用されていましたので、受け持ちの秋田は、よく43系を揃えたと思います。 昭和53年8月録音
子どもの時に読んだ絵本をはじめ、小学校の国語や音楽のネタになるなどの夜汽車というのは、新幹線や飛行機では味わえない人情味あふれる乗り物だったけど、唯一現存してる「サンライズ出雲・瀬戸」号は、ハッキリ言わせると夜汽車のイメージから大きくかけ離れており、お国言葉などが飛び交ってたあの時代が正直いって懐かしいです。
5歳ぐらいの時にはつかり号の切符がとれなくて臨時急行の十和田号(三戸駅を朝に出発、上野駅に19時~20時頃に到着する)乗った記憶がかすかにあります。自由席に乗車しましたが夏休み中で座ることも出来ずデッキで席が空くまで立って行ったと親が言ってました。凄く大変だったと聞きました。上野駅に着いた時のことはかすかに自分の記憶に残っています。東北道が全線開通するまで、新幹線が開通するまでは本当に大変でした。
コメントをありがとうございます。たしかに繁忙期の東北夜行は酷い混雑でした。でも上野駅ホ―ムに並びながら宴会しているオジサンを見ると、とても楽しんでいて気持ちが和みました。けれど私は臨時八甲田51号で、上野〜小牛田を立って頑張りました。発車3時間前から並んだのに、ある大学のサ―クルの集団が、先に席取りして窓から荷物を置いてしまったものだから…。悲しかったです。昔のおもいで。
@@syouwapoppo
それは酷い大学生の人達ですね。上野~小牛田間400キロ立ちぱなしは凄いです。小牛田までですと6時間半ぐらいかかったのでしょうか?自分なら途中で具合が悪くなっていたと思います。
@@横高頑張れ 様、ありがとうございます。小牛田は2:00頃だったかと?でもオハ12でボックスシ―トの背もたれに寄り掛かっていましたから。小牛田で床に新聞を敷いて、そこに座りました。冷房も有り難かったです。定期の八甲田にある、仙台〜青森間の増結車にすべきだったと思ったものでした。
懐かしい・・本当に懐かしい・・。
「列車がよく止まってからご乗車下さい」・・・の構内放送もありましたね。
当時に比べて現代は驚くほど便利で快適になったけど、捨ててきてしまった素晴らしい物も沢山あったのですね。
スマホもネットも何も要らないから、この頃の鉄道旅行を、また心ゆくまで飽きるまで、味わってみたいです。
コメントをありがとうございます。一度だけ、飛び降りをやったことがあります。もう停まる直前なので、大丈夫と思いホームにおりたのですが、結構エネルギーがかかっていたようで、客車と一緒に走ってしまったことがあります。自分で自分の足にブレーキをかけられなかったほど、強い力がかかっていたのです。後にも先にもこの一度きりです。
旧型客車は安全面が現代の基準に合わないため、使えないものなのでしょうが、乗車した人の自己責任で、長距離夜行などの企画列車などに走らせてくれないかと思うこの頃です。勝手すぎでしょうかね?
全然勝手じゃないと思いますよ。同じような思いを持っている人はたくさんいるんじゃないでしょうか。
速さや便利さや快適さを追い求めるのは人間の本能だけど、それだけじゃないと感じます。
走ってる時も開けっ放しのドア、線路が見える便器の穴、汽笛の後にくるガッシャンという衝撃。
そして、通過待ちで田舎の小駅に停車してる時の、何とも言えないシーンとした静寂感・・・。
けっして豪華とは言えないけれど、今思えばたまらなく贅沢で優雅な時間だったんだなーと回想します。
今手動ドアの車両なんか走らせたら、安全管理が・・・なんてクレームついちゃうんでしょうね。
せめて、大井川鉄道でこの汽車旅の雰囲気が味わえそうですね!
お疲れ様です。私ひと言、述べさせて下さい。特に「通過待ちで田舎の小駅に停車している時の、何とも言えないシーンとした静寂感・・・」
私もこれが大好きでした。時に、列車を降りた人がホームの砂利を踏む音が段々離れて行く。この感覚を共有しておられる人がいる事、感動しました。確かに、スマホもPCも、これに代えられるなら、要りません!
また聴かせていただいております。わたしも、もっと記録しておけばと悔やむばかりですが、このような貴重素晴らしい音源をご提供くださり、感謝と心より敬意を表します。
昔々は生録も大変でした。
自分はでんすけを買えませんでした。カメラだけ。せめてフジカシングル8くらい持っていればなぁと今なら思います。
音は、吊り掛け電車の音をとったくらいでした。
しかしキャノンFTとFL55ミリ1..2レンズとタムロン望遠にコムラー広角レンズ、二眼とマミやブレススーパー23で頑張りました。
その後銀塩カメラファンになり殆どのメーカーのシステムを集めてしまいましたが、最近は撮り鉄コロナでやってません。
乗鉄やりたいからコロナなくなりますように。
貴重な動画の配信ありがとうございます!
列車無線での発車のやりとりが、現在の東武鉄道のSL大樹と同じなのと、走行音が電車や気動車より静かなのが印象的でした。
素晴らしいです!
旧型客車が全力疾走で駅を通過していく夜行急行の走行音に初めてお目にかかりました。
しかもここまではっきりジョイント音が続くのは他にないのではないでしょうか。
上野駅全盛のころ大学生でした。懐かしさいっぱいです。
配信していただき本当に感謝しています。
発車のとき。ドカンとくる振動がなつかしい
編成表の面子見ましたが、中には昭和60年3月改正までいたようなのが・・・
懐かしいです
旧型客車の走行音はいいですね。
夜中に聞いていると最高です。
急行津軽は、昔北海道から帰る時に米坂線に寄り道するため青森米沢間の乗り鉄をしました。
昔は臨時列車は○○51号から53号位まで多客季節列車として走り、母方の実家の新潟県へ、信濃川51号なんて長岡方面で乗車しました。佐渡51号より臨時感ありました。
ありましたね!急行信濃川51号。私が記憶しているのはEF58が12系客車を牽引するものです。スキー臨で、小出スキー号とか五日町銀嶺号・石打スキー号など数多くの165系電車が、上越国境を越えて賑やかでした。信濃川号は異色だなぁと感じたものです。コメントをありがとうございました。
半鋼製車体にゴツゴツ響く大きな板バネ台車の音がなんともいいです。地元の上野口では早くからロングレール化が進んでいたので、この時代でもジョイント音は駅の前後でしか聞けませんでした。
旧型客車、板バネ台車の響きがいい。現在の客車のほとんどか、空気バネ、乗り心地は、いいけど。当時の客車のトイレ、ポットン。いまでは、考えられない。
ハイケンスのオルゴールいいね
どこかに故郷の香りを乗せて
入る列車の懐かしさ〜
陸奥(みちのく)から集団就職の列車に揺られて、上野へ着いたあの日。
あれからもう何十年になりますか……
田舎生まれ、田舎育ちの私を、大都会東京へと誘う(いざなう)列車。
希望よりも、不安の方が遥かに優ってはいましたが、列車のジョイント音が、子守唄のように和らがしてくれたような…
S50年以降、ナハ10系の老朽化が急速に進行したこともあってかオハ35(もちろん近代化改造車ですが)あたりも平気で定期急行に組み込まれていましたよね。
そうですね。毎週土曜日に下り急行八甲田を眺める機会がありましたが、基本43系の中に10系客車が混ざる編成が多かったのですが、時々ブルーのオハ35・茶色のスハ43(何れも盛モカ)を借りて盛アオに組み入れていたことがありました。
こういった小さな変化にワクワクしたものでした。コメントを有り難うございました。
KUNI様: ナハ10型やらナハネ10系やら、憧れましたが、使い捨ての10系はよりも35系やら42系が長持ちしました。鶴岡に行く鳥海など、懐かしいです。
子供の頃、夜行の急行列車で録音をしたんだけど、良い音が出来なくて、無人の車掌室に入って、窓全開で良い音が取れたんだけど、その時車掌さんが来て、即謝ったら、許して録音を続けて良いと親切な車掌がいたよ!
国鉄の時代でしょうか?今のように、約束ごとでルールを守るのではなくて、信頼関係でルールを守るという良き時代だったと思います。コメントを有り難うございます。
近年ジョイント音が無いものが多い中、これは有り難いでこざる。
夜に聞くと最高ですね。
懐かしい・・・私が小学校の時にお年玉を持って京都から出雲市行きの『山陰号』に乗って長い間座椅子に乗って旅した思い出が鮮明に思い出します。
夜行列車の雰囲気は、季節や路線によって異なりますが、夜の街を発車して徐々に闇に浸るようになると、心細くなったり、家の灯りに妙に和んだり、その長い闇を経てこそ空が白み始める歓びがありますね。朝を迎えられた歓びは、新しい自分の出発につながる気がしたものです。だから夜行列車、好きでした。
コメントを有り難うございます。
いつも ありがとうございます。
懐かしい
当たり前だったあのころの旧客の音にホッとします。
子供のころは 大阪から九州へ行く臨時急行は旧客でした。
夏も窓全開で暑いと思わなかったです。
いい時代でしたね。
子守唄代わりに楽しんでいます。
この列車は弘前発上野行だったのですが、弘前発車は17時頃で、夕焼けは背景の岩木山がとてもきれいだったのを覚えています。大館手前の矢立峠で、外気が寒くなり窓を閉めておりました。窓を開けて走る列車なんて、今では考えられないですね。
メッセージありがとうございます。
旧客しか 味わえない空気感や音がすきでした。
お話を読んでいるだけで列車の状況が目に浮かびます。
失われたいいものを残していただきありがとうございました。
43系客車急行に多く乗りましたがTR47台車をはいている客車は乗り心地が良かったですね。12系台車に比べてホイルベースが長いので上下動も少なくリズミカルな感じでよく寝られました。薄暗い室内なのでなおさら良かったです。
コメントをありがとうございます。小学生の頃、地元の列車でスハフ32に好んで乗りました。車内の雰囲気と、荒川鉄橋から眺める秩父山地に沈む夕日を見るのが好きで、わざと待ってこの列車に乗車することが何度もありました。スハフ32はTR23台車を履いていますので、結構硬い揺れだったのを覚えています。その後この列車に、スハフ32と同じ形をしているスハフ36なる客車が連結される日があり、乗ってみると揺れがドッシリしていて振られない印象の客車でした。何が違うか、この車両の台車はTR47だったのです。これが私の、TR23とTR47の違いに関心をもった最初の出来事です。オハフ61のTR11という台車も無骨な台車ですが、この揺れ方は、東北線でEF57が跳ばして走っている際、恐い思いをしました。余談ですが。
よく貴兄の録音を拝聴しております。本当に旧客は楽しいですよね。旧客末期の頃、東北線か高崎線のEF58牽引上り普通旧客の大宮~上野間によく乗車しました。その時、クラシカルな狭窓32系に初めて乗ったと思います。当時は30分以上掛っていたので、小旅行気分でした。61系は東北の支線でよく乗車しましたが、スピートが出るとピッチングが激しく、他車に比べて収まりが悪かった記憶があります。
親父が若かった頃、都会に憧れて乗った列車がこれだったんですね。上野からこれに乗って故郷に降りるのがステータスだったみたいです。
コメントをありがとうございます。この列車は臨時ですが、定期の「津軽」はA寝台あり、B寝台も2両以上でグリーン車もありといった、華やかなものでした。勿論、郵便車と荷物車もあり、奥羽本線の基幹列車でしたね。
臨時急行は51号 普通客レ夜行の上野行とか、もんぺ着た出稼ぎの農家の爺さんが乗ってきて新聞敷いて通路に寝るからね、
子供だったけどあんときは驚いた。
夜の上野発普通列車青森行(奥羽線経由)など、子どもの頃に見た情景は、床に座って酒盛りをしている出稼ぎ帰りのおじさん方でした。学生時代に私が通路に座り、寝込んだことは、旧盆前の急行八甲田の自由席でした。仙台~青森の増結車でも、混雑していることがありました。客車でも12系や14系だと明るすぎて、通路に座るには若干の抵抗がありました。今となっては、秩父鉄道の12系も、高崎の12系も懐かしさをおぼえます。
返信ありがとうございます、通路に座り込む、最近だと帰省時期で混んでる東海道新幹線位でしょうか?、もうちょっと後の昭和54年頃の夜行臨時急行おが54号?だと14系客車(座席車)の全席指定で(だったと記憶している)そういう状況がだいぶ無くなっていたのも変化として感じられました。サービス面で旧客を長距離急行として走らせる事も少なくなったのではと思います。貴重な音源公開ありがとうございます。
1988年3月10日、高校の卒業式の翌日、終焉を迎える連絡船に初めて乗るため八甲田に乗りました。自由席禁煙車の列に発車2時間前に並んだのに、座席に座れず荷物に座って夜を明かしました。つらかったけど旅をしている実感にうっとりしました。こんな贅沢できないのですね。
@@yamabato1033
ご同輩でいらっしゃいますね。私も卒業式後の3月11日あけぼののハネで北上、12日を青森市内で過ごし、13日に日付が変わった後の臨時便で渡道したことを懐かしく思い出しました。青森駅の日食で飯食ったなぁ。
これは良い睡眠薬😄
流石に優等車は連結されて居ないんですね。
旧客が急行だと昔は「えっ」て思いましたが、今の特急料金や普通電車から比べれば快適だったですよね!
追伸
客車が安く運用出来る法律改正をして欲しいですよね!特に地方の普通や寝台列車の為に!
旅の楽しみや情緒を思うと同感ですね。残念なことに、現代社会がそれを許せないことから、せめて、このコロナ渦による生活の見直しで、ゆっくりの価値が見直され、便利すぎることで失うものへの気付きを持てるとよいのですが。既にJRの旅客会社の中では、機関士養成をやめているために、客車列車が走れない幹線が生じてしまったことが残念です。利便性とは難しいですね。
コメントをありがとうございました。
@@usuki.f
機関車・電車の免許の統合と、JR以外の会社が「運行」に参入できるようにする感じですかね。
首都圏での運行は三複線の東北線と、東海道・横須賀線に発着枠を設定。車両整備はJRに委託って所でしょうか。
大宮駅に着いた地点では牽引機関車はなんだったんだろう?
大宮駅着の時点では、黒磯から牽引のEF58(宇都宮運転所)です。一般形客車への暖房供給は、EF65 1000台ではできなかったため、EF58はずっと残りました。
@@syouwapoppo そうなんだ!てっきりEF 57かと思ったよ!
京都で生まれ育った私にとって旧客は山陰線しか経験がありませんが、
記憶にあるのがオハフ33、オハ35とナハフ11でなぜか43系に乗った記憶がないです
TR47のどっしりした乗り心地、味わってみたかったです
ジョイント音が重厚な感じなのがしっかりと伝わってきますね
。